終戦記念日ですね。
今日は呉文通(ゴ ブンツウ)さんのことを書こうと思う。
浅草での呉さん
今年の春、仕事を通じて呉さんという台湾の人と知り合った。
話していくと、呉さんは第2次世界大戦終戦を日本軍の
兵士として迎えたということが分かった。
台湾は当時、日本の統治下にあり、小学生だった呉さんは
学校で日本語と日本の文化を学んだ。
そこで日本の歴史を学び、文化に触れていくうちに彼は
日本に、日本人に対して憧れを抱くようになった。
特に「大和魂」というものに呉少年は強く憧れた。
第2次大戦も敗色が増す頃、呉少年は徴用制度を利用して
日本軍に入り、日本人として戦いたいと思い始める。
14歳の時、反対する親父に殴られつつも、呉少年の意思は固く、
同様の思いを抱いた仲間と共に海を渡って日本へやって来た。
小林という名前をもらい、(選んだのかな)座間の基地で
いつか戦場で一花咲かそうと、部品や飛行機の製造・管理していた。
何でもない人が、お腹は空いていないかと、心配し、
食料を分けてくれたり、日本人には本当に良くしてもらった。
日本での生活が2年目に入った16歳の時に終戦を迎える。
アメリカ軍が厚木に入港した時の事を、呉さんは良く覚えている。
皆がうなだれている時、上官が「カシラアゲー」と命令したそうだ。
この状態でも下を向くなという上官に、大和魂を感じたという。
程なくして、台湾人は帰国船に乗せられ、台湾に送還される。
「日本人じゃなかったのか!」という思いで、帰る場所などない
台湾の地を踏んだ。
日本人は我々を見捨てた、裏切られた、という思いがした。
日本が去り、中国に支配された台湾で一生懸命働き、5人の
子供を育て、孫は13人もいる。
今となっては、終戦当時、この先どうなるか分からない日本で、
日本人でいさせるのは不味いという日本軍の優しさだと理解できる。
以上の様な話しを「この歌知ってる?」とたまに機嫌良く
軍歌を歌ったりしながら伺った。
周りから見れば軍国主義のとんでもない爺さんに見えただろう。
当時の日本人の仲間はね、負けたから、あの戦争が正しかった
とは絶対に言わないね。
でもね、僕はあの戦争はね、アジアの勝利と思ってるよ。
カシラアゲーだよ、カシラアゲーね。
という呉さん。
話しの途中、小林という名前になった時は嫌ではなかったのか?
と聞いてみると、彼は僕の肩を叩きながら笑顔でこう言いました。
「日本人になれてね嬉しかったよ。だいじょーぶ。
日本人でね、いーんです。自信を持ってね。」
呉さんが憧れた当時の日本人、我々の祖先に感謝です。
後日、写真を送ると、呉さんから手紙が届きました。
と書かれてあります。
台湾から「カシラアゲー」の声が聞こえるようです。
大和魂に「不戦」を加えて子ども達に手渡したいものです。
終戦の日はそんな事を考えております。
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